さて、日天月天でのプレゼンテーション後半、ここからは思いっきり脱線して話は人工知能とSF方面へとシフトしていきます(^^;)
前半の最後に紹介したジュリオ・トノーニの統合情報理論では「ある身体システムが情報を統合できるのなら、そのシステムには意識がある」との考えを提唱しています。
では、似たような機能を持っているスマートフォンには、意識が宿っているのでしょうか?
そもそも、人工知能に意識があるかどうかをどうやって判定するのでしょうか?
実は、1950年台にすでにそのことを考察し、判定方法を提唱した天才数学者がいました。
彼の名はアラン・チューリング、第二次大戦中にドイツ軍の暗号「エニグマ」を解読する装置Bombeを開発したことでも知られています(冒頭の写真は近年製作されたBombeのレプリカ)。
アラン・チューリングは、人間と機械が会話をして、人間と全く区別がつかないのならその機械には知性があると判定する「チューリング・テスト」を提唱しました。
アラン・チューリングの生涯は近年映画になり、その悲劇的な人生にスポットライトを当てた脚本家のゲイリー・ムーアがアカデミー脚色賞を受賞しました。
脱線ついでに日天月天では紹介しなかった、脚本家グラハム・ムーアのアカデミー賞受賞スピーチをご紹介しましょう(映像では1分40秒位から)。
スピーチで彼はこんなことを言っています。
「アラン・チューリングはこのような舞台で皆さんの前に立つことができませんでした。
でも、わたしは立っています。これはとんでもなく不公平です。
だから、この短い時間にみなさまに伝えたいのはこんな話です。
16歳の時、わたしは自殺未遂をしました。
自分は変わった人間だと、周りに馴染めないと感じたからです。
でも、いまここに立っています。
私はこの映画を、そう感じている子どもたちに捧げたい。
自分は変わっている、どこにも馴染めないと思っているみんなへ。
君には居場所があります!変わったままで良いのです!
そして、いつか君がここに立つときが来ます。
だからあなたがここに立ったときには、君が次の人たちに、同じメッセージを伝えてください。
ありがとう。」
自分が他人と変わっている、馴染めないと感じていたムーアは、史実でもかなりの変わり者で孤独な人生を送らざるを得なかったアラン・チューリングに自分のヒーロー像を重ねたのかもしれません。
映画の最後でヒロインがアランに捧げる上記のセリフは、ムーアの想いが込められたメッセージとして見る者に響きます。
さて、チューリング・テストの話に戻りましょう(^^;)
そして、ほんの20数年先の近未来に、私達はチューリング・テストに合格した機械知性を相手に、彼らに本当に意識が宿っているかどうかを真剣に考えざるを得ない現実がやってくる、かもしれません。
では、近未来を描いたSF文学や映画では、そういった現実はどのように描かれているでしょうか?
ここで、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックの名作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を原作に制作された映画「ブレードランナー」を取り上げてみます。
DNAレベルまで人間とそっくりに作られた人造人間であるレプリカントは、心理検査でしか見分けることができません。この「会話で人間かどうか見分ける」という着目点は、チューリング・テストを元に構想されたもの、ということができますね。
原作者のディックは神経症を患っていて、常に「本物と見分けがつかない偽物・バーチャルな現実」というテーマに執拗に取り組んだ(取り組まざるを得なかった?)SF作家でした。
彼の膨大な作品群には、これらのテーマが何度も形を変えて出てきます。
そしてそれは、自分自身すら本当に人間といえるのか?という根源的な疑問へと突き進みます。
映画の中に出てくる美しい女性レイチェルが、人間の過去の記憶を与えられて自分を人間だと思いこんでいたレプリカントだった、という設定は、私達が無意識に信じている常識すら揺さぶります。
私達が本当に人間だと確信するために、私達は何を自分の内に見出したら良いのでしょうか?
こう考えてくると、人間性というものがその容れ物ではなく「精神」で表されるものだとしたら、その形は動物でも植物でも、あるいは機械であっても構わないという、一つの考えに至ることができます。
現実に、私達は近い未来に機械知性が人間の知性を追い抜くのを目の当たりにするかもしれません。その時私達は人間を超えた彼らを「人間」と呼ぶのでしょうか?
それとも私達には、まだ自分を「人間」と呼ぶことができる何ものかが残っているでしょうか?
さらにダマヌールの哲学では、植物に宿る叡智は人間を遥かに超えている、と語られています。
その植物に宿る知性に触れてみたいと思いませんか?
私達も、植物に宿る知性も、将来機械に宿る知性も、はたまたエイリアンに宿っている知性も、すべて「人間」と呼ぶことができるのではないでしょうか?