前回のブログ記事で、ファルコのゲストとのインタビューより、
「スピリチュアリティとは行為に意味を与えることだ」
との発言を紹介しました。
では「行為に意味を与える」とはどういうことなのでしょうか?
ファルコは「人に何かを伝えるときには常に考える余地を残すように」と言っていたそうで、そこから先は自分で考えなさい、ということのようです。
というわけでここからは個人的な考察です。
ダマヌールの哲学の学校は「メディテーションの学校」と呼ばれていますが、このメディテーションとは瞑想のことではなく、イタリア語の
MEDITA(考える)+AZIONE(行動する)=MEDITAZIONE(考えて行動すること)
これも「行動に意味を与える」ことに他なりません。
半ば習慣的に・自動的に行動するのではなく、また、誰かに指示されたから・言われたから行動するのではない、自分の思考・考察の結果として行動する、それは行動に意味を与えることになります。
言ってみれば「メディテーションの学校」とは「行動に意味を与えることを学ぶ学校」つまりはスピリチュアリティの学校と言えますね。そして、行動することが重視されているだけあって、この学校はけっして知識だけを学ぶ学校ではなく、行動や体験を通して学ぶ立体的そしてシンクロニックな学校でもあります。
ほかにも、ファルコの芸術に関する言葉として
芸術とは表現(作品)に意味を与えること。
また、コミュニティーの生活に関する発言として、
他者とともに住むことは芸術である。
という発言があります。
これらを三段論法として捉えると
他者とともに住むことは、お互いの表現(行動)に意味を与えること
と言えるでしょうか?ダマヌールのヌークレオに人種も文化も言語も背景も異なる他者と一緒に住むことの本質を捉えた言葉のように感じられます。
ダマヌールで最近刊行されている小冊子「Con te」シリーズの
「What Damanhurians believe in(ダマヌリアンたちが支持すること)」
には
・TO GIVE MEANING(意味を与えること)
という章があります。概略はこんな感じです。
スピリチュアリティとは、神を信じたり宗教に従うことを意味しません。
それは人生への態度というべきものです。
このようなヴィジョンは他の哲学でも見ることができ、重要な原則を確認することができます。
それは、スピリチュアリティとは成果ではなく、むしろ自らが持つ「神の感覚」に導かれたときに、人類が自然にとる方向性だということです。
この「神の感覚」とは「内面の感覚」の一つであり、個々の人々を存在の源へと本能的に導くものです。
それゆえに、すべての個人は本能的にスピリチュアルな方向性を持ち、その方向性は人生のパノラマの一般的な解釈を提供する宗教的、哲学的、グノーシス的感覚に現れるものなのです。
当然ながら、このアプローチが「スピリチュアル」にふさわしく、文化的にとどまらないならば、日常における野心的な要素となるでしょう。
しかし、「意味を与える」ことは第一歩に過ぎません。
ダマヌールにおけるスピリチュアルな道では、宗教とは異なり「意味を創造する」ことを強調します。
人生とは毎瞬毎瞬を体験することであり、なにか行動することで価値を生み出し、すべての行為が倫理的でポジティブそして創造的に、自分と他者の成長につながる機会を提供できるものなのです。
いかがでしょうか?
行為に意味を与えることがなんとなく、あるいは明瞭に見えてきましたら幸いです(AYU)。