(人生の転機は絶望とともに(3)として書き始めましたが、何故メディテーションの学校で学ぶのか?というテーマに変容してきたので改題します。)
自分自身の人生を振り返ってみて、自分がこれまでずっと、何かから自分を守ろうとしたり、何かに対する反応としての選択ばかりをしてきたことに気づかされます。
対人関係で苦痛を生まないように、自分の主張が誰も傷つけないように、トラブルを起こさないように、巻き込まれないように、、、などなど。
しかし、それを恐れるあまり、結局は逆のことばかり引き起こしてきたのです。
自分自身のことを本当によく知ることは、なかなかに難しいことです。自分がどんな人間なのか知るためには、他人から反射された自分の姿を通してしか知ることができない、とは良く言われます。
かつてファルコは「あなたと共に生活したり学んだりする人たちに、あなたがどんな人か聞いて回りなさい。それをすべて足したものがあなたです。」と言いました。
自分とは、自分が思い描くような存在ではなく、他者にどう見られているかの総体なのですね。そこには自分の知らない己の姿がたくさんあり、なかなか受け入れ難い姿すらあります。
自分の本当の姿を知り、成長していくためには、共に学ぶ仲間の存在が不可欠。では何のために学ぶのか?
反射や反応ばかりで生きていては、自分の人生を生きていることにはなりません。そして同時に、自分自身の人生とは他者の存在なくしては成り立たないものでもあるのです。自立した人間どうしが、依存し合うのでは無く、お互いを尊重しつつ協働し、一人の力では実現できなかった理想や夢を実現していく、これこそが人生の学校での学びなのです。
反射や外部への反応ではなく、自分の本当の望みを知り、真に重要な選択を行うためには、指摘の教えのような、自分の深いところと繋がったり、表面の考えに左右されないようなトレーニングやガイドが必要になります。本を読んでばかりでアウトプットを試されない状況では、成長は望めないのです。
人生の学校というスタイルで、時間をかけて少しづつ成長しながら、変容のステップを人生を共にする仲間と登っていく。このような体験は、モノの所有に魅了されなくなり、あらゆる慰めが受け入れられなくなった貴方にこそ、必要なものではないでしょうか?
そこでしか学べないモノが確実にあることを、ぜひ貴方自身の眼と耳で、あらゆる感覚と直感とで確かめてください。お待ちしています。