植物は言葉をもつのか


海外に行くといつも痛感することは、いかに自分が言葉に頼って生活をしていたかということだ。
身振り手振りや表情で、簡単な感情や意思は伝えられても、喜怒哀楽の間に潜む微細な感情を伝えきるには、言葉を重ねるほかに方法が無いように思える。もちろん表情や声色で相手の感情を読み取ることはできるが、それはあくまでも今までの自分の経験と照らし合わせた、一方的な解釈にすぎない。

仕事柄、相手の言葉は理解できるが、発言と文字をもたない子どもたちと接することが多く、その意思疎通の難しさたるや、海外旅行とは比にならない。
「お母さんにマクドナルドのテリヤキバーガーを買ってほしいと言ってください」
この一文を、僕は理解するのに30分かかった。
言葉も文字も絵も使わずに、身振り手振りのみで、この文を理解するには、何十通りもの「一方的な解釈」を提示し、正解だったら次の文節・・・という具合に、数で勝負していくしかないのだ。

そこで、植物だ
植物は、字が書けない。身振り手振りもできない。きっと、植物と意思の疎通をすることは、長年の人間の夢だったろう。霊媒師よろしく、植物の声を容易に聞いてのける人もいるが、その精度には個人差があるように思う。植物を見て自分が感じた気持ち良さや感想を、自分に語りかけているような言葉で発言することはできても、それを植物自身の意思として正確に日本語に翻訳し、発言することは、僕にはかなり勇気のいることだ。

ダマヌールで開発された「植物の音楽の機械」の面白さは、そのメカニズムが極めて機械的なところにある。
土と植物間を流れる電気信号の電位差を利用して、機械的にそれを音に変換する機械だ。驚くことに、人が近寄ると奏でるのを止めたり、自身の奏でる音を認識して、音色を変えていったりもする。やはり、植物には意識があり、意思がはたらいているのだ。

僕は、植物との意思疎通は容易ではないことだと思っている。僕が植物の言葉を聞くときには、自分自身の内なる声が、植物と接することで引き出されたのだと信じる。勉強もせずに、イタリア語が理解できるわけがないのだ。

植物の音楽の機械は、植物語の勉強をしなくても、植物の歌声を聴くことができる信頼できる翻訳機だ。

植物との意思疎通への道。
これは、人類の心おどる第一歩だ。

CLIONE